2月26日 桜ケ丘聖地にて
志手に「志豊会」という住民グループがあります。昔から志手に住む「園田」(※)さんたちが中心になって活動し、志手天神社の夏祭りや年越しの行事などには欠かせない存在です。
※このブログ「大分『志手』散歩」の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁志手と言えば園田さん その祖先を辿れば」もご参照ください(2023年1月公開)
新型コロナウイルスの大流行で、地域の行事は軒並み中止となり、志豊会も活動の縮小を余儀なくされましたが、コロナ禍でも続けてきたことがあります。それが桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の清掃です。基本的には2月、5月、8月頃に草刈りや樹木の剪定、排水路の掃除などをします。
左の写真は志豊会による桜ケ丘聖地の清掃作業の記録の一部です。
2月の清掃が26日に行われました。手元の記録を見ると、去年も26日でした。以前は必ずしも26日だったわけではありません。昨年は土曜日、今年は日曜日と休日で集まりやすかったこともありますが、もう一つ大きな理由があります。
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1919(大正8)年2月26日。この日、シベリア出征中の旧陸軍大分連隊の多数の将兵が、ユフタの戦闘※で命を落としました。だから慰霊の意味を込めて26日に墓所をきれいにしようということになったと聞きました。
※「シベリア出兵とユフタの戦い」については、このブログ「大分『志手』散歩」の「志手界隈案内➃桜ケ丘聖地その2~その4」で少し書いています(2021年10月公開)。興味のある方はそちらもご参照ください。
シベリア出兵と大分連隊について簡単に書いておきます。
社会主義革命で混乱するロシアに救済の手を差し伸べるとの名目で、日本がシベリア出兵を宣言したのが1918(大正7)年8月。最初に派遣されたのが大分連隊が所属する第十二師団でした。
ユフタ(地図に緑のマルを付けました)付近に到着したのが2月25日だったようです。25日にまず敵情偵察に出た小隊が戦闘で壊滅し、翌26日には本隊が全滅しました。
大分県のホームページを見ると、この年(1919年)に当時の陸軍墓地(現桜ケ丘聖地)に303基の戦没者の墓が建立されたとあります。シベリア出兵で亡くなった大分連隊の将兵が合わせて303人だったということでしょうか。
一度に多数の戦死者を出したユフタ付近の戦闘は大分県民に大きな衝撃を与えました。以来毎年2月26日にはユフタの戦死者を弔う式典が行われることになりました。
記事には、大法会は午後3時から志手ヶ丘陸軍墓地(現桜ケ丘聖地)で、仏式を以て荘厳に執行したとあります。参列者は、福岡、鹿児島その他各地よりの遺族を始め、矢賀大佐、杉村大分衛生病院長(略)その他の将校、准士官下士、各中隊代表兵卒、一般参拝者等数百名に及んだ、と記事に書いてあります。
1945(昭和20)年の日本の敗戦後も遺族会による慰霊祭が行われていたようですが、今は2月26日も普段通りの桜ケ丘聖地で、ひっそりとしています。
ただ、一組だけ、今年も墓参りに来られた家族がありました。
日ロ関係を考えるうえでも「シベリア出兵」という出来事は大きなエポックだったと思うのですが、教科書などにはどのくらい書き込まれているのでしょうか。筆者もシベリア出兵についてわずかな知識しか持ち合わせていませんでしたが、ユフタの戦いを知ったことでシベリア出兵を少し勉強する機会を得ました。
歴史は人の賢さや愚かさを学ぶ格好の材料となります。シベリア出兵とユフタの戦いも色々考えさせられるとても良い素材だと思います。
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